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異文化コミュニケーションで学んだこと 寛容のタイ編

院長雑記

posted by admin

22歳の時、バンコクにタイマッサージを勉強しに行ったのが、
この業界に入るきっかけでした。
以来、もみほぐしから始まって、
整体シフトしていき、
もっと深い勉強がしたいという熱望から鍼灸の資格とりました。

人の性格は生まれ持ってのものと、
後天的に作られるものとがあると思いますが、
それとは別に、
学んで変化していく人格などもあると思います。

私にとってタイに行ってよかったこと、
それは「寛容さが増して、許すことを覚えた」ことです。

もともと人に対して怒りを覚えたり、
負の感情を維持することが難しく、
寝たら忘れてしまうタイプなので
穏やかなほうだと思っていました。

が、それは大きな勘違いで、
自分自身の感情の許容量を上回るほどの、
魂が揺さぶられる体験が少なかったからだという気づきがありました。
具体的に言えば
「どこまで理不尽を感じれば、怒りが湧くか」
「何に対して怒りが湧くか」

帰国して今にいたるまで、
日々様々な気づきがあり、
10年前より5年前、5年前より今で比べれば、
多少はマシになっている部分はあると思います。
今の付き合いがある人たちにとっても、
5年前、10年前の私だと、
嫌なやつだったかもしれませんね。

タイ人の国民性は、
ひとことで言えば「おおざっぱ」です。

とくに言われるのが「マイペンライ精神」というもので
マイペンライは「大丈夫だ」「気にするな」
という意味で使う言葉です。

約束をする→遅刻をする
→遅刻してきた人が
「マイペンライマイペンライ」とへらへらしながら言う

などということはざらです。

日本人的な感覚で言えば、
「おい!開きなおってんじゃねえ!」
約束や時間を守らない、
しかも謝るどころか開き直るなんて言語道断です。

誤解を招くといけないので説明しておきますと、
タイ人すべてがそうなのではなく、
自分が関わった中では、
そういう人が大変に多かった、ということですね。

ふとしたときに、
「この感覚で人を許すことができれば、
心に余裕ができるな」と気づきました。

自分は約束を守るけれど、
相手には目くじら立てないようにしよう。

謝罪や言葉を期待するから、腹が立つのであって、
期待しなければよい。

そう思うようになりました。


気づいたときに意識しますが、、
守れないときもあるので、
それを自覚すると
「まだまだ自分は小さいなあ」と反省して今に至ります。


介護職をした時は、
まさにこれが生きた体験でした。
認知所のお年寄りで、症状が酷いときなどは、
相当に理不尽な出来事が生まれます。
そういうときに「仕方ないな」と受け入れができました。

が、怒りが維持できないと書いたにも関わらず、
延々と理不尽を強いられて、
「こ、こいつは・・・・(ぷるぷる)」と
私でも怒りが沸いてくるとんでもない人もいました。

人生で初めて「こいつ早く死んでくれないかな」
という感情が湧いてきたとき、
「ああ、自分はこんな感情を持つ人だったんだ・・・」
とかなりショックを受けました。

今から思うと、
夜勤をしていたことで、自律神経失調があり、
忍耐力とか削られていたり、
過労の時は、やはり余裕がなかったから
余計にいらいらしやすかったのだな、と思います。

一番きつかったのは、夜勤明け直前に拘束されて、
謎の説教を1時間くらい受けることでした(笑)
普段だったら大丈夫なのに、
何度食らっても、
疲労困憊の時は本当の腹の底の忍耐力を
試されることがわかりました。。。


現在の私が怒りを感じるポイントは、
自分が自分自身に向けて感じる自己の情けなさや
自分の周りにいる仲間、家族が傷つけられた時です。

自分自身への誹謗中傷というものには、
理由があって子供のころより大変にさらされていたので、
元々ダメージ少なかったのが、さらに少なくなり、
よほどへこむことはなくなりました。


現代は情報社会で、
何につけても、粗を探したり、
突っついたりすることで炎上が起きるネット社会です。

もちろん、正さなければいけないことは、
正さないといけないかもしれません。

が、ひとつ考えてほしいことは、
人に指摘をするときは、
本来の自分の人格以上に、
「自分は高潔である」と思っていませんか?
ということです。

聖書でも、罪人に石を投げる民衆に
キリストが「今まで罪を犯したことのないものだけ石を投げなさい」
と言った話があります。

そのあとキリストだけが石を投げたという話で
色々と突っ込みどころはありますが、
つまりはわが身の行いを振り返れよ、という意味でしょう。

自分が高潔だから相手を否定してよい、よくない、
というものではなく、

集団真理にさらされたとき、

本来の自分の姿から、
流されていないか?を疑問に持つ。
意識することが大事なのだと思っています。

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